森見登美彦氏、南座へ行く。


 アニメ「有頂天家族」のイベントがあるというので、登美彦氏は南座へ出かけた。


 登美彦氏は着慣れない浴衣でヨチヨチ歩いて、南座の建物に楽屋口から入り、エレベーターに乗り、廊下を歩いていった。畳を敷いた部屋があって、「森見登美彦様」と書いた紙が貼られている。登美彦氏は楽屋の真ん中にチョコンと座った。窓の外には四条大橋と、鴨川をはさんで東華菜館の建物が見えていた。
 「まさか初めて来る南座で、楽屋に入らせてもらえるとはナア」
 南座でアニメのイベントがおこなわれるのは、初めてのことであるという。
 ワクワクと落ち着かないので、階段をのぼって屋上の喫煙スペースへ出ていくと、吉原正行監督が縞々の浴衣を着て、カンカン照りの空の下で「わかば」の煙を吹いていた。そうして監督がニカッと笑ったところは、狸一族の長のような貫禄があった。


 司会の岩崎和夫氏と南かおりさんが舞台上で喋り始めたとき、キャストの方々はすでに舞台裏で登場の支度をしていたが、堀川社長と吉原監督と森見登美彦氏の出番までは間があったので、彼ら三人は迷宮のような廊下を辿った先にある控え室で待っていた。
 モニターで会場の様子を眺めていると、舞台の下から櫻井孝宏氏と諏訪部順一氏がズーッとセリで上がって来て、会場にすごい歓声が響いている。続いて花道を歩いて能登麻美子さんと中原麻衣さんが登場して、さらに歓声が響いた。きわめつけは「すっぽん」で登場した吉野裕行氏であった。会場の人たちはたいへんな興奮である。
 シンとした控え室でその様子を観ている三人の心中を思うべきである。
 そういうわけで、貫禄があるのに恥ずかしがり屋である吉原監督はぬいぐるみの小熊のように小さく可愛くなりゆき、貫禄がないうえに恥ずかしがり屋である登美彦氏はモニターを睨んで沈黙した。そして堀川社長は謎めいた微笑を浮かべたまま静かに頭を垂れていき、うなだれきって額が机にぶつかると、そのままコツコツと額を打ちつけながら、無言のままで揺れていた。
 三人の心は一つになった。
 「この状況下、はたして我々が出ていく意味はあるのだろうか?」
 登美彦氏は思った。
 「もし客席に座る側であったら、きっとステキな時間を過ごせたであろうに」


 とはいえ、登美彦氏が心配したほどツライ結果にはならなかった。
 少なくとも「花道を抜けた先は反感の国でした」という悲劇は起こらなかった。
 登美彦氏は話を聞いてくれた観客のみなさんに感謝している。
 舞台から見上げると、ずーっと高いところまで人の顔がぎゅうぎゅうであった。あとで聞いたところによると、800人を超えていたそうである。記念撮影をするとき、観客席にいる人たちが下鴨家の家紋の入った手拭いを取りだしてヒラヒラさせるのを見て、登美彦氏はたいへん愉快な気持ちになったという。
 その後、登美彦氏はインタビューを受けたり、『有頂天家族』のマンガ版を描いている岡田祐氏を楽屋に迎えたりした。『有頂天家族』はマンガも出版される。


 打ち上げは、四条大橋西詰「東華菜館」の宴会場である。
 登美彦氏は乾杯の挨拶をした。
 「『有頂天家族』の有頂天な未来を祈念いたしまして、乾杯」
 そうして登美彦氏が、少年のようにキラキラした目をした中原さんに麦酒を注いでもらってゴマンエツでいると、吉野氏がまるで「すっぽん」に乗って現れるようにスーッと出現してペコリとお辞儀し、「『四畳半神話大系』からふたたびどうも」(表現は正確ではない)と言った。「どうもどうもふたたびお世話になります」と登美彦氏も言った。
 そして登美彦氏は能登さんのコップに麦酒を注いだ。「能登さんはお酒は飲まれる方ですか?」と訊ねてみると、「飲みます」と彼女は即答した。
 「でも今日はひかえております。おほほ」
 登美彦氏はひそかに妄想した。
 「ひかえなかったらどうなるのだろう。まさか空を飛んだり、狸鍋を食べたり……」
 その後、櫻井氏にタヌキの矢三郎の絵を描いた誕生日ケーキが贈られることになり、彼は皆に見守られながら大きくナイフをふりかぶって可愛いタヌキの首をはねた。描かれたタヌキがあまりにも可愛くて誰にも手が出せないので、「しょうがない、ワタクシがひとおもいにやりましょう」ということらしかった。
 その首をはねられたタヌキ・ケーキを、諏訪部氏が冷静にカメラで撮影していた。
 諏訪部氏は前日の夜に京都にやってきて、木屋町をぶらぶらしていたという。「おばんざいを食べたあと、焼き肉屋に行ったんです」と言った。登美彦氏もまた前日の夜にやってきて、「レストラン菊水」のビアガーデンで遊んだりしていたので、どこかですれ違っていた可能性がある。ということを述べると、諏訪部氏は「惜しいことをしました」と言った。
 諏訪部氏は長兄であり、吉野氏は次兄であり、櫻井氏は矢三郎であり、中原さんは矢四郎である。
 

 大勢の人たちとワイワイ話をしているうちに窓外は暗くなった。
 鴨川の対岸には、本日のイベントがおこなわれた南座が見えている。
 『有頂天家族』の第一章を登美彦氏が書いたのは、2005年の初夏であった。ひとり机に向かってエイヤッと気合いをこめ、弁天を南座の大屋根から東華菜館の屋上へ跳躍させたとき、まさかそれが映像となり、よりにもよってあの南座で上映され、その打ち上げを東華菜館でやることになるなど、「ひとかけら」も思わなかった。
 机上に転げ出たデタラメに、逆に呑みこまれてしまった観がある。
 「これは本当のことだろうか」
 登美彦氏は前々から考えている。
 「どうも怪しい。化かされているような気がする」
 そう考えてみると、宴たけなわの会場には狸的気配がモヤモヤと漂っている。
 エネルギーのかたまりに帽子をのっけたみたいなmilktubの人がノシノシ歩いており、「窓際でスープをすすっている大きなタヌキがいる!」と思ったら吉原監督であり、ふいにKBS京都の人が登美彦氏の耳元で「森見さん、テレビに出ませんか?」と怖いことを囁いたりするのに、担当編集者は手酌でドンドン飲んでいる。登美彦氏が宴会場の隅に逃げていくと、fhánaと名乗る四人の人たちが、子狸みたいな美しい目をパチクリしてこちらを見つめていた。左端に立っている眼鏡の人が「僕はケビンです」と名乗り、「いろいろな音を出します」と謎めいたことを言った。「いろいろな音ってどんな音ですか?」登美彦氏がびっくりして見つめ返していると、四人は登美彦氏を見つめたままスーッと後ずさって宴会場の人ごみに紛れてしまった。そのとき、会場の向こうから天狗笑いが聞こえてきた。能登さんかもしれなかった。
 「どうも怪しい。みんなステキに怪しい」
 登美彦氏がそんなことを呟いていると、唐突にP.A.ワークスの某氏がマイクの前に立ち、アニメ「有頂天家族」の「これまで」と「これから」について熱く語っていたが、ふいに感極まって男泣きした。男泣きらしい男泣きを、登美彦氏は久しぶりに見た。
 「怪しい人ばかりだ」と考えた。「どうやらまともなのは私だけだぞ」


 登美彦氏は、吉原監督たちが富山へ帰っていくのを見送った。
 監督たちの仕事はいよいよタイヘンになる。
 「小説はスバラシイんだから、あとは絵で頑張る」
 監督はそう言ってニカッと狸笑いをし、重厚なエレベーターに乗りこんだ。
 他の人々も少しずつ帰路につき、祭りの火は小さくなって、やがて河原町の地下にあるバーへ移った頃には、淋しん坊たちのキャンプファイヤーのごとく、こぢんまりとした集まりになった。登美彦氏は薄暗い片隅で一日の余韻に浸りつつ、本日のイベントを実現すべく暗躍してきた人たちが、アニメ「有頂天家族」の「これまで」についてしみじみ語り、「これから」を熱く語るのに耳を澄ました。「まるで何かが終わったみたいな感じですけど、これからですからね」と誰かが言った。「これから始まるんですよ」
 登美彦氏がポカンとしているうちにやってきた「びっぐうぇーぶ」は、こうやって大勢の人たちが何年もかけて支度しつつあるものである。
 男泣きで宴会を締めくくった某氏がこっくりこっくりと居眠りを始め、「眠ってる」「眠ってる」とみんなが囁いているうちに、一日の幕は引かれていった。
 「近年まれに見る楽しい一日」
 と、登美彦氏は呟いた。


 アニメ「有頂天家族」の放送は七夕の頃より始まる。
 「七夕の頃」と憶えて頂ければ幸いである。


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