「asta*」 12月号


恋文の技術 第七話「恋文反面教師・森見登美彦先生へ」



 十月十一日


 実験ノートとエントリーシートを書く日々です。こんにちは。
 国立近代美術館、楽しかったようで何よりです。たまには文化的な生活もいいでしょう?私も研究室の仲間たちと出掛けたことがあります。藤田嗣治の絵を見つめていた伊吹さんの横顔を思い出します。美術展の素晴らしいところは何か分かりますか。彼女の横顔が見れるところですよ。一緒に出掛けたはずの他の連中のことは、何一つ覚えておりません。
 本日、所長に呼ばれて、今月末に京都へ帰還することが決定しました。谷口さんの執拗な叱咤のおかげで、この山奥へ来た当面の目標は果たせたわけです。四月以来、苦しく淋しい半年でしたが、今は京都へ戻るのが素直に喜べなくなってしまった。恋文を読み上げろ、と大塚さんから命じられているからです。こんな人間としての尊厳を踏みにじるような要求は、はねつけてもいいと思う。けれどもそんなことをすれば、大塚大魔王は卒業するまでの残り数ヶ月、全精力を傾けて私を苛めるに違いない。そんな無益なことをしてどうするのだと言っても、趣味なのだからしかたがない。
 週末に実家へ戻ったら、また妹がゴロゴロしていたので、恋文について訊ねてみました。森見さんがあんまり頼りないので、女性の意見を知りたかったのです。
 「おまえ、恋文もらったらどうする?」
 「破り捨てる」
 「すごく良く書けた恋文だ。読めば惚れること請け合いなんだぞ」
 「破り捨てる」
 以上です。
 妹はどうやって幸せになるつもりでしょう。幸せになれないところだけ兄貴に似てどうする。いや、あれで妹は案外、兄に黙って幸せを掴んでいるのかもしれません。ずるいやつ。でも妹が幸せになるのは許してやろうと思う。妹の結婚式で号泣して、妹に嫌がられてやろうと企んでいる。
 お手紙ありがたく拝読しました。しかし「清い心で書いているように見えないのは、清い心で書いていないからだ」とは、なんという言いぐさでしょう。傷つきました。一寸の虫にも五分の魂。私にだって清らかさはある。ご指摘の通り、おっぱいのこととか、いろいろ雑念は入る。けれども、雑念を恐れて何が書けるというのですか。純粋培養された心ほどつまらぬものはない。おびただしい雑念に埋め尽くされた土壌から、強い心が、強い愛が育つのであります。ともすればおっぱいのことを考えがちだからといって、私が清い心でないと非難するのは早計です。でも、手紙に書くとおかしくなるのですね。相手にこちらの気持ちを伝えようとすると、おかしくなるのはどういうわけか。
 森見さんのご提案通り、冷水で身体を清め、清潔な服に着替え、正座して机に向かってみましたが、書いているうちに情熱が迸り、書き上がる頃には不気味なものができていました。読み返しているうちに、「こんな手紙をもらったら、伊吹さんは韋駄天のごとく逃げ去るだろう」と思いました。
 情熱を注ぎ込めば注ぎ込むほど、意中の相手を逢い引き場所から遠くへ追いやるものができるのです。駄目です。もう駄目です。
 私には恋文を書く能力がなく、エントリーシートを書く能力もない。
 恋文というのは、意中の人へ差し出すエントリーシートでしょう。就職といい、恋人といい、私にはエントリーする能力が根本的に欠けているのだと思います。このまま手をこまねいていては、人生にもエントリーできなくなる。どこにもエントリーできない私は、女性にも会社にも求められることなく、詭弁踊りを踊りながら中空をふわふわ漂い続けるのです。いつまでも、どこまでも―
 それにしても、自分が求める相手に求められるというような虫の良い現象が、本当にこの地球上では起こっているのですか。とても、信じられない。
 さようなら。


                    男一匹 守田一郎
Tomio様


 追伸
 ちなみに、森見さんの勧める「斎戒沐浴」は実家の風呂場で実行したのですが、冷水で身体を清めながらあまりの冷たさに絶叫しているところを妹に聞かれ、「せめて正気を保て」と表情を変えずに言われました。どうしてくれる。