「野性時代」 12月号


ペンギン・ハイウェイ(連載開始)


 早寝早起きがぼくのスタイルだ。
 ぼくはたいへん頭脳を使う生活をしているから、夜はすぐに眠くなる。妹よりも早く布団に入ってしまうぐらいである。だから夜ふかしができないかわりに、朝起きるのは得意だ。目覚まし時計が鳴る前に目をさます。近隣の小学四年生の中では一番だと自負するものだ。
 ただし、ぼくは目がさめた後もベッドの中でゆっくり過ごす。寝起きの悪い妹のように赤ん坊を気取っているのではない。ぼくは哲学者のように考えごとをしているのである。そうやって、自分が自分であることを少しづつ実感していく。その時間がぼくはたいへん好きである。
 ベッドであお向けになったぼくの右側には大きな窓があり、淡い空色のブラインドが下がっている。朝の陽射しがぼやけた光の縞を作って、部屋はやわらかな光でいっぱいだ。五月の朝はまだ空気がひんやりとしているから、まるで水の中にいるみたいである。自分が海の浅瀬で暮らす小さな生き物のようだと思う。
 生命は四十億年も昔に海で生まれたと本に書いてあった。
 その頃の海はどんなだったろうとぼくは考える。
 その頃の空は何色だったろうと考える。
 ごつごつした岩場が広がっていて、その向こうには海がある。聞こえるのは波と風の音ばかりだけれども、その音に耳を澄ませる人間は一人もいない。淋しくて恐い景色だったろうなあと思うけれど、淋しいと思う人間がいないのだ。人間どころか、陸には植物も生えていないし、動物だっていない。昆虫や恐竜だっていない。そんな静かな岩場の水たまりで、初めての生命が生まれた。水の中をゆらゆら漂った。誰もそれを見ていないのだけれども、そういうことがあったのだ。生命の最初は小さな分子で、それがだんだん大きくなって、複雑になって、気の遠くなるような時間をかけて、進化してきた。
 ごく最近になって人類が現れた。
 その一番新しいのがぼくたちだ。

 
 ぼくは朝の光が射す自分の部屋をベッドの上から見渡す。作りかけのレゴブロックが見える。本棚にはぼくが入念に読んだ本や、研究成果を整理しているファイルがいっぱい入っている。本棚の上に置いてあるのは、クリスマスプレゼントにもらったトリケラトプスの骨格模型だ。机の脇には地球儀が置いてある。探検用のリュックや、ランドセルもある。
 そうやってぼくは、自分が自分であることを思いだし、だんだん楽しくなってくる。
 その日の朝もいつものようにベッドから部屋を点検していたのだけれど、机の上に大切なノートがないことに気づいた。そこでようやく、前日にノートをスズキ君にだいなしにされたことを思いだした。おしっこまみれになったノートは可哀想だったし、たいへん残念なことだけれども、いくら嘆いたって取り返しはつかないし、つまらない。そんなことがあったとしても、ブラインドの隙間からのぞく五月の空はきれいだし、空気はさわやかで、ぼくの頭脳はさえている。今日もぼくは元気である。
 そのとき、妹が「お兄ちゃん起きろ!」と叫んで、部屋に飛びこんできた。
 少しばかり早く目がさめたと思うと調子に乗って、兄の思索を邪魔するのが彼女の悪いところだ。ぼくが生命の誕生とか、そういう地球規模の壮大なことを考えているのが分からないのだろう。妹は生命の起源を知ろうともしないし、生命の起源を知らなくても小学二年生はじゅうぶん勤まるとたかをくくっているのだ。まったく呆れるしかない。でも念のために書いておくと、それが彼女の良いところでもある。
 妹はぼくのベッドに飛び乗って、ぼよんぼよんと跳ねた。
 「こら!」
 ぼくは怒ったふりをして、妹を毛布ですっかりくるんでしまった。彼女はうおーと唸って逃れようとし、やがて身動きがとれないと分かると、「出して!出して!」と泣き声を出した。妹は弱虫だから、あんまり長いことおさえると本当に泣いてしまう。兄の威厳を見せてやればよいのだから、ぼくはすぐに許してやった。でも毛布から解放されると妹はまた平気な顔をしてヘヘヘと笑うのだ。兄の威厳を示すのは、たいへんむずかしい任務だ。
 「朝ご飯を食べよう」
 ぼくがベッドを下りて部屋を出ようとすると、妹はベッドに座ったまま「お兄ちゃんの歯抜けジジイ!」と叫んだ。
 乳歯の抜けたところが、朝の空気にスウスウした。