『恋文の技術』(ポプラ社)


 文通武者修行の栄光と悲惨


 終わらせようにも終わらない締切次郎との死闘を登美彦氏が繰り広げているうちに、次の息子が世に出る支度をととのえた。
 三月十日が発売日であるというが、少々早まったり、遅くなったりする。
 でもだいたいそれぐらいである。


 「息子」にしてはおしゃれである。
 しかし外見に騙されてはいけない。
 これはあからさまに「息子」なのである。


 文通武者修行に挑んで迷走する主人公が書き散らした百通をこえる手紙。
 それだけがえんえんと並ぶ本であるという。
 手紙以外には何もないのである。
 この本において、事件は現場で起こっているのではない。
 事件は机上で起こっている。 


 出版にともない、東京にてサイン会が行われるというが、詳細はまだ分からない。
 判明次第、告知する。



四月十日


 拝啓。
 お手紙ありがとう。研究室の皆さん、お元気のようでなにより。


 君は相も変わらず不毛な大学生活を満喫しているとの由、まことに嬉しく思います。
 その調子で、何の実りもない学生生活を満喫したまえ。
 希望を抱くから失望する。大学という不毛の大地を開墾して収穫を得るには、命を賭けた覚悟が必要だ。
 悪いことは言わんから、寝ておけ寝ておけ。


 俺はとりあえず無病息災だが、この実験所は淋しいところだ。
 最寄り駅を下車したときは衝撃をうけた。駅前一等地にあるが、目の前が海だから、実験所の建物のほかは何もない。
 海沿いの県道を先まで行かないと集落もない。
 コンビニもない。
 深夜の無人駅に立ちつくし、ひとり終電を待つ俺をあたためてくれる人もない。
 流れ星を見たので、「人恋しい」と三回祈ろうとしたら、「ひとこい」と言ったところで消えてしまった。
 どうやら夢も希望もないらしい。


 指導してくれる谷口さんという人も妙だ。
 むかしの刑事ドラマに出てくる犯人みたいなジャンパーを着て、髪はくるくるで、がりがりである。金曜の夜になると実験室の物陰でマンドリンをかき鳴らし、自作の歌を裏声で歌う。そして謎の腔腸動物をひたしたコーラを飲み、涙目になりながら「どうだ?」と俺に無理強いする。その不気味な液体は精力を増強させるそうだ。
 七尾湾に面する静かな海辺で黙々と精力を増強し、いったい何にそなえるというのか。
 ここへ送り込んでくれた教授に、俺は一生涯、感謝の念を捧げることであろう。


 今日は一日中、アパートの部屋にこもって手紙を書いてる。


 この一週間、実験所ではほとんど喋っていない。喋ってくれるのは谷口さんだけだ。会話の半分は怒られている。谷口さんは俺を叱り飛ばす合間にクラゲを観察し、謎の液体で精力を増強してばかりいる。


 京都の暮らしがなつかしい。
 荷造りしながら「俺という大黒柱を失う京都が心配だ」と嘆いていたら、「その前に自分の将来を心配しろ」と妹に言われた。女子高生のくせに、しばしば本質をつくのが彼女の悪いところだ。あれでは幸せになれんよ。


 サンダーバードに乗って京都を去るとき、わざわざ雨の中、京都駅まで見送りに来てくれたことを感謝する。
 君と別れたあと、琵琶湖西岸を北へ走るうちに雨が小やみになり、比叡山に連なる山々の方角に美しい虹が出た。
 枯れた田んぼの畦道を、母親らしき女性に手を引かれた少年が歩いていた。
 「おや」と思っていると、彼は何かを結びつけた赤い風船を空へ飛ばしていた。


 美しい虹と赤い風船。


 せっかくの機会だから、俺はこれから文通の腕を磨こうと思う。
 魂のこもった温かい手紙で文通相手に幸福をもたらす、希代の文通上手として勇名を馳せるつもりだ。そしてゆくゆくは、いかなる女性も手紙一本で籠絡できる技術を身につけ、世界を征服する。
 皆も幸せ、俺も幸せとなる。
 文通万歳。
 これからも手紙くれ。何か悩み事があれば相談したまえ。


             匆々頓首

 
             守田一郎 


小松崎友也様