登美彦氏、琵琶湖へ逃亡する


 森見登美彦氏はつねにもごもごと陰気で人間嫌いであるが、その実、腹の中は意外に天真爛漫で明朗愉快のトキメキ聖人君子であって、仏頂面のままおおむね機嫌良く暮らしているのだ。しかし昨日頃より、氏はじわじわと不機嫌の泥沼へ沈みだし、沼から頭だけ出しているカエルのようになり、その陰気ぶりは悽愴の度合いを増した。世の中のいっさいがっさいが気に食わず、そう思っている自分も気に食わず、書きかけの原稿も、読みかけの本も、何から何まで気に食わない。そうなると自室に居場所がなくなった。
 「これではいかん。諸君!なんとかせねば!」
 登美彦氏は叫んだ。
 「魂にもっと潤いを!」
 かといって外へ出るのは氏にとって一番難儀なことだ。
 見所満載という意味では日本国屈指と言われる「京都」に住みながら、登美彦氏は観光地にまるで興味がない。まるまる八年住んでいるというのに「金閣寺」に行ったことがないのである。作品の舞台として活用するならばともかく、そういったところを歩いていると、きまって登美彦氏は義務で歩かされているような気分になり、「早くおうちへ帰りたい」と思うのだという。
 かといって観光地をのぞけば、街へ出たってすることはない。登美彦氏はさして映画館へ熱心に通う男ではなく、本屋へ行くと読んだことのない本が多すぎていらいらする。氏は馴染んでいない本は嫌いである。しゃれた喫茶店で珈琲を飲むのは氏の流儀に反し、しゃれた店で服を買うことも氏の流儀に反し(ええもん安いイズミヤなら行ける)、基本的に一人で知らない店に入っていくのは氏の流儀に反するのである。
 街はおおむね登美彦氏になにものも与えない。
 ざんぎり頭をかき廻して思案したあげく、氏は現在国立近代美術館で行われている藤田嗣治展を見て、「ちょっと俺だってオシャレな週末を過ごしたりするんだゼ。NHKの日曜美術館も観るゼ」と誰にともなく主張しようとしたが、一人で地下鉄東西線に乗っていると、おそらくたくさん人がいるであろう国立近代美術館に入っていって、へんてこりんな髪型のおじさんが描いた絵をいちいち見て廻るのがいやんなっちまった。
 「ちくしょー、下車したくねえなあ!」
 氏がそう思っているうちに電車は駅を通過して、そのままずんずん東へ進んでいった。うかうかしているうちに逢坂の関を越えた。その当然の帰結として、なぜか登美彦氏はまったく来る必要のない琵琶湖の前に立ってぽかんとしていた。
 ちゃぷちゃぷと水音がして、ぼんやりと霞のかかった水平線にはヨットがたくさん浮かんでいた。涼しい風が吹いていた。複合型アミューズメント施設「浜大津アーカス」は、複合型のくせに、氏に何ひとつアミューズメントを提供してくれなかった。
 しかし琵琶湖は美しかった。
 登美彦氏は大津港へ歩いていって、いっしゅん、一人きりで遊覧フェリーへ乗りこんで琵琶湖クルーズとしゃれこんでやろうかと思ったが、甲板から身を投げる羽目になりそうであったので止めることにした。
 「それにしても琵琶湖はでっかいな!」
 登美彦氏は琵琶湖就航の歌を歌おうとしたが歌詞が分からなかった。
 しばらく氏は呆然としていたが、やがて大津市内を歩き出した。さびれた商店街を歩いた。大津市立図書館へもぐりこみ、地元住民に混じってチェーホフの短編を読んだ。
 「ワタクシは本日、ナゼ大津市立図書館の隅でチェーホフを読んでいるのであるか?なにゆえの神出鬼没?」と登美彦氏は自問した。
 昨日には考えてもいなかったことなので、登美彦氏は不思議な感じがした。しかし無目的に出かけた先ですることもなく、公共図書館でこっそり骨を休めているのは、氏の流儀に反しない。
 登美彦氏はそれからまた電車に揺られて帰っていった。


 登美彦氏のかくもハードボイルドな日常に、とくにオチは必要ない。
 「週末をオモシロおかしく過ごそうという根性が、けっきょく諸悪の根元である。諸君、書を捨てるな。家へ踏みとどまれ!」
 登美彦氏はそんなことを言っている。