登美彦氏、締切太郎を召還する


 八月の頭のことである。
 不安感、胃痛、頭痛、倦怠感、手の痺れ、身体のこわばり、めまい等々、色とりどりの症状が一斉に登美彦氏を襲ってきた。かつて美女たちに「軟弱そうに見えて意外に頑丈なのネ」と囁かれがちだった机上の鉄人も、今度ばかりは耐え抜くことができなかった。
 現在、登美彦氏は静養中である。
 ゆるやかな回復傾向にある(と筆者は祈るものである)。


 一時、登美彦氏は奈良に戻り、かつて祖父母が暮らした四畳半で寝込んでいた。
 簾の外からは蝉の声が聞こえ、庭の木立の向こうには青い夏空が広がっていた。
 布団にころがって、登美彦氏は翻訳物の推理小説や児童書を何年ぶりかに読み、胃の痛みに呻き、そして世の中にあるもの一切を「胃に良いもの」と「胃に悪いもの」に分類した。


 胃に良いものは以下の通りである。
 ・ローカル線の小さな駅
 ・生駒山
 ・風にのってくる夏草の匂い
 ・入道雲
 ・簾を揺らす夕風
 ・高校生の頃に読んだ海外ミステリ...等々たくさん


 そして胃に悪いものは以下の通りである。
 ・締切


 最近、増えすぎた締切と締切がたがいを妨害し合い、来るべき破局を先延ばしするだけで登美彦氏は息も絶え絶えという状況であった。手に負えない混雑ぶりに、やがて登美彦氏は事態を改善しようという気力さえ失った。
 一切は、登美彦氏の計画性のなさと己への過信が原因である。今回、登美彦氏は当然の報いを受けたのだと言える。
 締切を守るのは作家として大切なことである。
 守れないのであれば締切を作る資格はない。
 「締切をなくすほかない」
 そう登美彦氏は決意した。
 そして編集者の皆さんと会合を持ち、締切太郎を召還した。
 締切太郎とは、現時点で存在する締切次郎たちをすべて反故にする存在である。
 かくして、現在の定期連載と不定期連載は、すでに書き上がっている原稿の掲載が終わった時点で一時的に中断されることになった。
 「読者の方々、そして担当の編集者の方々に、深くお詫びいたします」
 と、登美彦氏は言っている。


 登美彦氏は体調の回復を待ち、仕事を少しずつ再開するという。
 しかし、それがいつ頃になるか、今の時点では分からない。あまり早急に仕事を片付けようとすれば、同じ過ちを繰り返すことになる。
 二度と締切太郎を召還する羽目にならないように、登美彦氏は仕事の流儀を見直すべきである。
 締切とは賢く付き合うべきである。 
 己の力量のほどを知るべきである。