登美彦氏、豆をまく


 森見登美彦氏は吉田神社の節分祭へ出かけた。
 その夜、京都はおそろしく冷え込んで、歩いているうちに雪が降りだした。


 夜店のあいだを抜けていくあいだに雪は本降りになって、登美彦氏の頭に降り積もった。大勢の人が押し合いへしあいしながら参道を抜けていって、「雪だ雪だ」と騒いでいた。
 ぬくぬくとした夜店の明かりが夜空へ滲みだしている中を、ふわふわと綿のような雪がたくさん舞うのを見て、登美彦氏はたいへん嬉しくなった。
 登美彦氏はこういう面白みのある雪を愛する小粋な人である。 
 「しかし寒いな。しかも一人だ」
 登美彦氏はマフラーに顎をうずめて歩いた。


 登美彦氏は、節分祭というからには、豆を握った正義の人たちと金棒を振り廻す残虐無比な鬼たちの血で血を洗う大合戦が見られるものと期待していたが、人混みにもまれるばかりで、なにがなにだか分からなかった。鬼もいなかった。人ばかりだった。
 夜の十一時から何か神社の中に積み上げたものに火を点ける行事があるらしかったが、その時刻が近づくと人々が境内に澱んで、にっちもさっちもいかなくなるらしい。大元宮まで行って戻ってきた登美彦氏は、見物客にはばまれて、東大路へ抜けることができないと知った。
 「帰られへんがなッ」
 登美彦氏は怒り心頭に発したが、後の祭りである。
 せっかくここまで来たのだからその何だか分からない行事を見ていくべきかとも思ったが、そう思っているうちに混雑はひどくなる一方であり、登美彦氏は人混みの中にいると恐くてパニックになるので、腹を立てながら大元宮へ退却した。
 あんまり腹が立ったうえに寒いので、登美彦氏は紙コップに入った濁り酒を買った。
 「酒を飲んでも一人」
 氏はそう呟いて、酒をすすりすすり歩いていった。


 雪はいったん止んだが、また激しく降り始めた。
 大元宮を抜けてしまうと、嘘のように祭の賑わいが遠のいてしまった。
 酔っぱらった登美彦氏が夜の雪にうずもれて、街灯を見上げてボウッとしていると、吉田山の先生に声をかけられた。吉田山の先生は、ただ登美彦氏が先生と呼んでいるだけで、本当は先生ではない、よくわからない人である。しかし登美彦氏は「先生」と呼んでいるので、ここでも本名は打ち明けない。
 「やあ」と先生は言い、鮎の塩焼きを振り廻した。そして登美彦氏の濁り酒を奪って飲んでしまった。登美彦氏はあんまりお酒が飲めず、浮かれて買った濁り酒の処置に困っていたのでありがたく思った。鮎の塩焼きを分けて欲しいと思ったが、先生はそんなことは意に介さずに一人で食べていた。
 「もし鬼が金棒を振り廻して襲ってきたら、たとえ豆を握っていても私はとりあえず逃げるな。いくら効力があると聞かされても、襲ってくる鬼に豆なんぞを投げつける心の余裕があるとは思えない」
 先生は雪の中を歩きながらそんなことを言った。


 登美彦氏は大寒波から逃れるために吉田山東斜面にある先生の下宿へお邪魔し、命ぜられるままに豆をまいた。
 「私は先生と違って多忙なのです。だからこんなことをして遊んでいる場合ではない。締切もまた来るし」
 登美彦氏は言った。
 「まあまあ」
 先生は言った。
 「いいからいいから」
 先生が巻きずしを丸かじりしなくてはいけないといって海苔を買っていたので、とりあえず巻いて囓った。具は「のりたま」であった。
 「なぜ、海苔を買って、具を買わんのですか」
 登美彦氏は怒った。「そしてなぜ、この家にはのりたましかないのですか」
 「まあまあ」
 先生は言った。
 「いいからいいから」


 登美彦氏は先生とさしむかいで、豆を囓りながらお酒を飲んだ。
 先生は登美彦氏がいっこうに次の本を出さないことについて、ひじょうにあけすけに非難した。先生はいつもあけすけなのである。
 「先生に付き合って、こういうことをしているからです」
 登美彦氏は反論した。「恋するひまもありゃしない!」
 「人のせいにしてはいかんね」
 先生は登美彦氏に説教した。