登美彦氏、吉田山へ逃げる


 森見登美彦氏は暗礁に乗り上げた。もういろいろなものが同時多発的に暗礁に乗り上げた。そういうわけで登美彦氏はすたこらさっさと逃げ出して、吉田山へのぼった。氏は先生へのみやげに、適当に饅頭を買っていった。
 吉田山の先生は登美彦氏が適当に買っていった饅頭を当然のごとく受け取り、「うまい饅頭うまい」と言って登美彦氏と奪い合うようにして食べた。


 やがて登美彦氏は浴衣姿の先生の前に膝をつき、頭を垂れた。
 「先生!不肖・森見登美彦、いちおう出版界の片隅へこっそりもぐりこむことには成功し、作家と名乗っても詐欺ではないという地位にすがりついてはおるものの、先日来、どうにもキーボード上を指が踊らず、貴重なる週末になっても机の前で達磨のように膨れて虚しく時間を潰すばかり、ブログ上で報じるべき血湧き肉躍る日常も、麗しの乙女とのアバンチュールも涙を呑んで諦めておるというのに、ようやく書けた文章は小学生の読書感想文の分量にも満たぬのです。もはや開設時には決して書くまいと決意していた泣き言でも書かぬことには、作品どころかブログに書くようなことさえ一切ない。このままではどないもこないもにっちもさっちもどっちもそっちも」
 「じゃあ、やめちまえ!」
 先生は饅頭をほおばりながら叫んだ。
 「そういうわけにはいかんのです」
 「なにゆえ」
 「約束というものがあります。仁義というものが」
 「仁義なく戦え!」
 「先生のような具合にはいかんのであります」
 二人はそこで一息入れて、茶を喫した。
 涼しい風が吹いてきた。
 「梅雨入りしたということだが、降らないね」
 「拍子抜けですな」
 「まあここで本題に戻って、貴君が書けないということだがね。だいたい君は書くのがどうしようもなく遅いではないか。稀代の名文をこね上げているわけでもないし、埴谷雄高みたいな偉大なる哲学小説を書いているわけでもなく、実社会とは何の関係もない内容だし、中身があるようでじつはない。それなのに、なにゆえ書くのが遅いかといえばだ、すらすら書いてはとうてい人に読ますに価する文章が書けぬからだ。それだけのことだ。ちっとでも気を許すと、中学生の作文になっちまう」
 「先生、これは手厳しい。しかしその通り!」
 「それに貴君はストーリーを組み立てるのがへたくそであろう。世には二種類の作家がいる。一つは書いているうちにお話ができてくるスティーヴン・キングのごとき天才型。もう一つはこつこつと前もって綿密に計画を立てて下調べをしてようやく『えいや』と始める秀才型。しかし貴君はそのどちらにも属さない。毎回よくも考えずに書き出して、そのくせうまくいかなくて、なんだか文章をひねくったチカラ技で無理矢理しのいでおるだろう」
 「先生。それもまた残酷にも正鵠を射ている。その通りだ!」
 「文章はなかなか出ない。ストーリーも作れない。ドラマチックな経験もない。膨大な蘊蓄もない。人斬りみたいな鋭い感性もない。体力もない。根性もない。根気もない。知恵も勇気もない。なんにもない。ようするに向いていないのだ!引退だ!それしかない!訣別だ!サヨナラだ!サヨナラだけが人生だ!」
 「先生、そういった結論を出すにはまだ時期尚早で・・・」
 「そう考えてくると、私には貴君が暗礁に乗り上げているのはあたりまえだと思える。だから何も悩むことはないのだ。いったい他にどう手の打ちようがある。貴君ほどの虫けらが暗礁に乗り上げるのはまことにもって理の当然、君ほどのクソ虫が暗礁に乗り上げなければそれこそ何かが間違っているのだ」
 「なるほど」
 登美彦氏は深く納得した。

 
 吉田山を下りてきた登美彦氏は机に向かってみた。納得はしたものの、事態はいっこうに解決されていない。
 「今日はこれまで!」
 登美彦氏は久しぶりに必殺技を使って、寝ることにした。