登美彦氏、書く、続。


 森見登美彦氏はやはり書いていた。


 毎度のことではあるが、登美彦氏はこの週末を誰とも口をきかずに過ごした。
 他人と口をきかずにすむのは登美彦氏にとってはむしろ愉快である。しかし週末が明けて人と口をきかねばならぬとき、きまって登美彦氏は困難を感じる。人との喋り方を忘れているのである。
 したがって登美彦氏は出かける前に、「おはようございます」「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と発声練習をしようと考える。けれども未だにしたことがない。朝そんなことをしている時間はないからだ。


 誰とも口をきかず、無精髭を伸ばして気分を盛り上げ、風呂にも入らず、珈琲を三十杯飲み、煙草を百本灰にしたが、懸案の書き物は仕上がらず、また一つの暗礁に乗り上げた。乗り上げて遊んでいる場合ではないのだが、乗り上げてしまった。
 「これはいかんな」と登美彦氏は呟いた。「しかし事態はおのずから好転するであろう。何の根拠もないが、だがしかし、これは信念の問題だ」
 そこで登美彦氏はほかの書き物を思い出し、気分転換にそちらを書いた。
 そちらはちゃんとできたので、登美彦氏は「今日はここまで!」と宣言した。


 夜になって初めて外へ出ると、雪がうっすらと積もっていた。いつのまにか降ったらしい。登美彦氏はマフラーに顎をうずめて、寒さに震えながら歩いていく。公園のわきを抜けた。公園にはまだ雪が残っていた。
 登美彦氏はふいに淋しい気持ちになった。雪が降るような寒さに一人で震えていることが淋しかったのではない。氏はそんな安易な感傷に溺れる人間ではない。自分が一日中地下室に籠もっているうちに雪が降ったのが悔しかったのである。
 「せっかく雪が降ったのなら、その中を歩きたいではないか。そうではないか」
 呟きながら氏は歩いていった。


 コンビニから帰ってくる途上、街灯の明かりの中に、雪が舞うのを登美彦氏は見た。
 氏はそれで少し溜飲を下げた。
 そして帰宅して、風呂に入った。