登美彦氏、サイン会を行う


 森見登美彦氏は河原町ジュンク堂にて、サイン会を行った。


 登美彦氏がサイン会を行うのは、二年前『四畳半神話大系』のサイン会をいまはなきブックファーストで行って以来のことである。生涯初のサイン会を行った書店が一年とたたぬうちに河原町から姿を消したことは、登美彦氏に故郷を喪ったかのような淋しさを感じさせたという。
 ちなみにあの(登美彦氏の中で)伝説的なサイン会は、よりによってクリスマスイブに行われた。「ぜひイブで!」という、あまりに粋すぎる書店側の提案に、登美彦氏はとうてい拒否できぬ立場へ追いやられ、分刻みで決まっていたイブの予定をやむなくキャンセルせねばならず、たいへん迷惑したという。


 サイン会は午後二時からBALの8Fにて始まった。
 登美彦氏は狐の面をつけた関係者の方々にとりかこまれ、逃げられないよう足を机に縛りつけられた。そしてサインをし続けることを強要された。サイン会なので、多少の人権侵害はやむを得ないことである。
 緊張した登美彦氏はぷるぷると震えていたが、サインしてもらおうとやってくる人も緊張してぷるぷる震えていることがあり、たがいにぷるぷる震えているのでなにがなんだか分からないことがしばしばあった。
 なにより登美彦氏が驚愕したのは、モテモテだったことである。
 参加者をのぞけば誰も信じまい。
 しかし、これは否定しようのない事実である。登美彦氏はファンレターをもらい、あろうことか、プレゼントさえもらっていたという。
 あんまりモテモテだったので、登美彦氏は反省した。
 「こんなことでは、いずれプレゼントにもらったカルピスやお菓子で食いつなごうなどと企てて、勤労意欲が失せてしまう。隠しても隠しても滲み出す魅力を、抑える工夫をしなくてはならん。能ある鷹は爪を隠す!」


 このような方々がやって来た。
 二年前のサイン会に電気仕掛けで歩きまわるパンダをくれた人物、黒髪の乙女たち、男たち、京都SFフェスティバルから抜け出してきた人、Tシャツに名前を書けという人物(二週間前に彼女にふられたうえペットボトルの落下を阻止しようとして屋上から転落して入院中の孤高の英雄O氏の代理を兼ねる)、『ゴキブリキューブは実在するのか?』と問う女性、『大文字山にのぼって登美彦氏を捜してた』と言う女性、『恋人が登美彦氏のファンで僕よりも登美彦氏を愛しているから決闘しろ』と言う人物、母と娘、娘の代理の母、中年の紳士、書店員の方、研究室の先輩とその妻、『取材受けます、と書け!』と迫る学生新聞のやり手記者、クラブの先輩、バイト先の後輩、和歌山から来た令弟、学生時代の友人、同僚たち、編集者など・・・
 登美彦氏は以下のように述べる。
 「サイン会には慣れないので、心の余裕なく、慌てた面もあったことは御容赦頂きたい。メッセージもその場でちゃんとすべて読むべきであった。ともかく、来てくださった読者の方々に御礼申し上げる。またサイン会を取り仕切ってくださったジュンク堂書店の方々にも御礼申し上げる」


 サイン会の後、登美彦氏は京大生協ルネのためにたくさんの『きつねのはなし』に名前を書き散らし「こんなに売れるのかな」と心配し、それから編集者と連れだってあちこちの書店へ挨拶に出かけ、そしてそこでもサインをした。
 学生時代に登美彦氏がしばしば通った白川通の丸山書店では、『太陽の塔』MAPやら狐の面が大きく飾られていた。店の女性がわざわざ伏見稲荷へ狐のお面を買いに行ってくれたと聞き、登美彦氏はありがたく思った。京都駅の三省堂を訪ねたところ、そこにも狐のお面があった。
 あちこちに挨拶をしてまわっているうちに日が暮れたので、登美彦氏は二人の編集者と肉をもりもり食べて腹を膨らました。
 その席上で仕事の話が出たが、登美彦氏は締切のことなど何も分からない生まれたての赤ん坊のふりをしてぶうぶう言い、編集者を困らせた。


 その日の夜、登美彦氏はサイン待ち時間に読者が書いたメッセージと、ファンレターと、乙女たちからのプレゼントを持って帰った。そしてメッセージの束とファンレターを、橙色の箱へソッとしまい、心の栄養を増やした。
 敢えて繰り返すが、登美彦氏は好意的なファンレターをもらうことが大好きである。しかしもう大人なので、勘違いはしないと言い張る。


 登美彦氏には、まだどうにも腑に落ちないことがある。
 「そもそも、私のサインを嬉しいと思う人がいるというのが腑に落ちない。大して見栄えのするサインでもない。少なくとも私は私のサインを貰っても(ごくまれな例外を除いて)ぜんぜん嬉しくないのだ。これは、じつに妙である」


 ブログを読んでいる人々が多かったのも、登美彦氏を驚かせた。いったい誰が読んでいるのだろうと思いながら書いている点では、小説もブログも同じである。
 「サイン会に来てくださった方々。今、ブログをお読みだろうか。無論、お読みであろう。これからも宜しくお付き合い願いたい。それでは失敬」