森見登美彦氏が惑溺してはばからないLOFTの文房具フロアにバレンタイン用のコーナーができて、手帳のたぐいが隅に追いやられてしまった。
憤激した登美彦氏がうろうろしていると、ポスターが目に入った。
「告白しなかった恋は、どこへ行くのだろう」
「知らんがな」と登美彦氏は言った。
登美彦氏は、聖バレンタインデイにさして興味はないと述べる。なぜならあまりにも無縁であったからである。氏の出身校は男女共学であったから、ためしにドキドキしてみたものの、やがてドキドキするだけ寿命を縮めて損だと見抜き、激しく興味を失った。
やがて思春期の荒野を迷走しだした登美彦氏は、友人がもらったバレンタインの手作りクッキーを、別の友人とともにむさぼり喰うなどの悪事を重ね、己のバレンタインにまつわる想い出を、黒一色に塗りつぶしたのである。
さらば恋するチョコ祭り。さらば恋する乙女。
意中の人のために恋する乙女が作ったクッキーを、意中の外に立ちつくす無関係者たち(登美彦氏with坊主のせがれ)が校舎の隅でむさぼり喰うという愛憎なき地獄絵図―
登美彦氏は「うまい」と言った。
坊主のせがれも「うまい」と言った。
そういう想い出があるという。
そういう想い出のみあるという。
あまりにも無縁だったので、大学生の身となって以後、登美彦氏はすっかりその聖なる日を放念したてまつり、毎年「ああそういえばそうか」と思い出すにすぎない。そこに読者諸氏は、登美彦氏の器の大きさを見出さなければならぬよ。
「大きいよ。すごく大きいよ」と登美彦氏は言う。
すっかり油断していた登美彦氏が、今朝仕事場にいち早く着き、デキる男のオーラを思うさま垂れ流しながら仕事の準備をしていると、とある女性がおずおずと登美彦氏の方へ向かってきた。
登美彦氏はニワカにパニックに陥った。
「まさかこんな朝一番に?しかも衆人環視の前で?大胆すぎて対応できん!」
そんな登美彦氏の狼狽を尻目に、彼女は小さな菓子らしきものをさしだした。
「わー、バレンタイーン」
登美彦氏は心の中で叫んだ。
「私からじゃありませんよ」
彼女は断固として言った。
その菓子は彼女の御母堂から「哀れむべき子羊・登美彦氏に渡して来い」と命じられて預かってきたものであるという。
彼女の御母堂は登美彦氏の作品を読破して、貴重な時間を溝に投げ捨ててかえりみない大きな心の持ち主である。掲載誌もばっちり読んでいるとのことである。今また御母堂は、かぎりなく小さな菓子をもって、かぎりなく大きな哀憐の情を登美彦氏へ垂れ給う―
登美彦氏は感謝して受け取った。
そして彼女自身は何もくれずに去る。
本日の収穫は以上であった。
しかし登美彦氏は拳を握って言う。
「我が聖バレンタインデイに悔いなし!」