森見登美彦氏は「ぽーにょぽーにょぽにょ」と心の中で歌いながら、宵山の喧噪を抜けていく。
編集者が一緒なので、声に出して歌ったりはしないのである。
ちなみに登美彦氏は遊んでいるわけではなかった。
小説を書くために取材をしているのである。
取材をする際、なによりも大切なことは、ラムネを飲み、いちご飴を食べ、地鶏焼き鳥を食べ、神戸牛串焼きを食べることである。そして編集者の人が執念で手に入れた金魚入り風船を頭上に揺曳させて、婦女子にきゃあきゃあ言われることである。
「これが取材か?という異論は却下!」
登美彦氏は呟いている。
「それにしても、どちらを向いても人だらけ!」
森見登美彦氏は蟷螂鉾の界隈をうろついていた。
猛然と取材をしていると、うら若き女性に「森見さんですか?」と声をかけられた。
登美彦氏はできるだけ油断なく、美女の読者に応対する用意をしている。しかし残念なことに、たまたま油断しきっているところを狙い澄ますかのように彼女たちは出現するのである。油断していなかったためしがない。
「まことに腹立たしいことに!」
登美彦氏は言っている。
例によって登美彦氏は残念な応対しかできない。
これは双方にとって不幸なことだ。
彼は「どうもどうも」と曖昧なことを言いながら握手して、早々に立ち去る。
雑踏を抜けた登美彦氏は四条烏丸の交差点に立っている。
東西南北に続く人の海と、点々と浮かび上がる山鉾の明かり。
壮大な光景に「あれよう」と呟いていると、東京からメールが届いた。
それは職場の先輩であった。
「祇園祭の見物中にファンに握手を求められるとは、売れっ子も大変ですな」
登美彦氏はびっくりした。
つい十分前の出来事を、なぜ東京に住む先輩が知っているのか。
「千里眼!?」
以下は真相。
登美彦氏に握手を求めた美女は、先輩の中学以来の同窓生ということであった。
宵山に流れ込む観光客の群れから森見登美彦氏を発見するのは至難のワザである。
「スモールワールドだ!」
登美彦氏は呆れた。
「油断もすきもありゃしない!」