登美彦氏、未来へ目を向ける


 森見登美彦氏が長い地下生活に区切りをつけて地上へ出てみると、世界はみずみずしい新緑に包まれ、「夏か」と思うほど暑かった。
 あまりにも長い地下生活を余儀なくされた登美彦氏はその美白ぶりに磨きをかけていたので、道行く美白好きの乙女たちが一人残らず完膚無きまでに悩殺されたのも頷ける。登美彦氏は歩くそばから次々と手渡される花束を、「ありがとう、ありがとう」と哀愁漂うかすれた声で受け取り、下宿へ持ち帰って塩漬けにした。


 登美彦氏は黄金週間から黄金(=次の作品)を掴み出すべく奮闘努力したが、故・寅さんも歌うように「奮闘努力の甲斐もなく」、じつに生半可な成果を上げた。筆者はその生半可ぶりを、ことこまかに記す煩に耐えない。
 けっきょく仕事はなにひとつ区切りもつかなかったので、登美彦氏はいっさいを未来の自分へ向かって丸投げした。未来の自分とは、具体的に言えば「五月の登美彦氏」「六月の登美彦氏」「七月の登美彦氏」・・・「n月の登美彦氏」である。
 「五月の登美彦氏」はいささか怠け者なので、面倒なことは「六月の登美彦氏」に押しつけるであろう。そして「六月の登美彦氏」の性格を考えると、自分だけが苦労することは断固拒否するのは明らかであるから、けっきょく「七月の登美彦氏」が引き受ける。どうせ「七月の登美彦氏」は早々と夏バテにかかっているはずであるからグダグダ文句を言い、七月と八月を分かつ絶望の境界線上では、七月八月両登美彦氏の血で血を洗う戦いが繰り広げられるであろう。その向こうで超然と座っている「九月の登美彦氏」が、実はとんでもなく懐が深く冷静沈着なハンサムガイ・しかも仕事のデキる男であることを祈るほかあるまい。


 生半可な成果の上がったゴールデンウィークを肩越しに振り返りながら、登美彦氏は今、猛烈に旅に出たくなっているという。
 「なんでか分からへんけど長崎へ行きたい」
 登美彦氏はそう呟いている。「カステラカステラ」
 しかし氏はべつにカステラが好物なわけではない。あれば食べるというだけの間柄であったはずだ。


 長い地下生活から、急に眩しい新緑に包まれる世界へ放り出されたので、登美彦氏はまだ本調子が出ない。しきりに疲れる。洗濯するのも面倒くせえ。ちっともやる気が出ないので、登美彦氏は自身に喝を入れる方法を模索中である。
 「東京事変群青日和という歌がある。終わりあたりに、椎名林檎が「教育して叱ってくれええええ」と歌う。あそこの「ええええ」のところで、歌いながらぐいぐいっと踏んづけてもらったら、いかにも喝が入りそう」
 登美彦氏はよく分からない要求を、誰にともなく、した。
 そうして、塩漬けにした花束を囓っている。