森見登美彦氏はのんびり暮らしている。
奈良というところはたいへん静かである。
学生時代、登美彦氏は北白川バプテスト病院のそばに住んでいた。
四畳半の内も外も、たいていひっそりとしていた。
しかし卒業後は賑やかな方へ出てきた。
京都の四条烏丸であるとか、東京であるとか。
そして、いつの間にか、登美彦氏は賑やかさに馴染んでいたようである。
奈良に帰ってきた当初は、その静けさにびっくりしたという。
登美彦氏は自転車でふらふらと走っていき、
ふと貯水池の土手で止まる。
遠くには奈良の盆地を囲む山並みが見え、
天空は、叩けばカンと鳴りそうなぐらい澄んでいる。
耳を澄ましてもシンとしている。
あたりに充ちた静けさが、
まるで高級化粧水のように登美彦氏の魂に浸透してくる。
「これは奈良的静けさだ」
登美彦氏は主張する。
静けさに「奈良的」などというものがあるのだろうか。
その点、やや疑問である。
しかし「奈良的静けさ」が浸透したおかげで、
登美彦氏の魂は潤いを取り戻してきた。
ときどき苦しくなるが、なんとか誤魔化せる。
「だましだまし行こう」
登美彦氏は呟く。
そのかわり、奈良的静けさは麻薬のように登美彦氏を酔わせる。
登美彦氏は一週間に二日、京都の仕事場で仕事をする。
しかし奈良的静けさに慣れると、
京都的賑わいですら登美彦氏を疲れさせるのである。
奈良的静けさの中では、一日一日がまるで流れるように過ぎる。
遠く奈良時代までさかのぼってみれば、今日という一日は一瞬である。
雄大なリズムで、太陽は昇り、また沈む。
山々は朝陽に染まり、夕陽に染まる。
繰り返し、繰り返し。
妻が珈琲をいれながら「やうやう白くなりゆく山ぎはー」とぷつぷつ言う。
のんびりするなというほうが無理な話である。
登美彦氏は少しずつ仕事をする。
なにしろ登美彦氏はこの不調から抜け出さなくてはならぬ。
ときどき、登美彦氏はベランダで日向ぼっこをしながら、
「まるで隠居したかのようだ」
と思うことがある。
しかし、まさか。
隠居している場合ではない。