森見登美彦氏、遅れに遅れて帳尻が合う。
今作は八月十一日と十二日の物語である。
ちょうど今日と明日、作中作外がリンクする。
というわけで、読むなら今である(だからといって、「明後日以降に読んではダメ」ということはまったくありません)。
森見登美彦氏がこのようにバッチリのタイミングで本を出せることなどめったにない。それが今作にかぎってどうして可能であったかというと、例によって登美彦氏の執筆が遅れに遅れ、しょうがなく出版を半年延期したからである。延期したらピッタリ夏になった。乗るつもりだった電車に乗り遅れて、「これはもうダメだ」とションボリしていたら、電車のほうも到着が遅れていて、思いがけず乗れてしまったような感じである。
したがって、威張れることは何ひとつない。
清らかなおっさんたちは清らかな怪獣と化すであろう。
先日、『四畳半タイムマシンブルース』の増刷が決まった。
こんなにも早く増刷になるのは小説家人生で初めてのことである。
出版前、登美彦氏はうじうじと心配していた――もしもこの小説の売れ行きが芳しくなかったら原案者の上田誠氏もションボリの巻き添えになるわけで、さぞかし忘年会は哀しいものになるであろう。我らは涙に濡れつつ冬空に咆哮し、清らかなおっさんたちは清らかな怪獣と化すであろう。寒風の吹きすさぶ鴨川べりは我ら怪獣たちのいるところとなるのだ……Where the Wild Things Are!
しかし幸いにも、現在の順調な売れ行きは明朗愉快な忘年会を示唆している(コロナの影響には不安があるにせよ)。読者の皆様に感謝いたします。
さて。『四畳半タイムマシンブルース』の出版にあわせて、「オンライン読書会」なるものが開催される。登美彦氏も初めてのことなので、いったいどんなふうになるのかよく分からないのだが、これもまた、今だからこそできる体験かもしれない。
ご興味のある方は是非よろしくお願いします。
https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01dqju113g8jc.html
ドロステのはてで僕らは四畳半タイムマシンブルース
森見登美彦氏、じつに久しぶりの「腐れ大学生」小説である。
『四畳半神話大系』から十六年、それだけの歳月を超えて、かつて書いたキャラクターをふたたび書くのは容易なことではない。「私」にしても「小津」にしても「明石さん」にしても当時てきとうに書き散らかした筆にまかせて自由に生みだしたものであるから、計算して再現するのは不可能である。
というわけで、『四畳半神話大系』とまったく同じとは言いにくい。
一番大きなちがいは、全体的に丸くなったというか、みんな可愛らしくなったという点であろう。主人公の「私」にしてもそうだし、とりわけ「明石さん」がそうである。その理由としては、登美彦氏が歳を重ねて学生時代から遠くはなれたからということもあるし、中村佑介氏によって描かれた「明石さん」があまりにも素敵だったからということもある。素敵なものを素敵に書きたくなるのは人情である。
とはいえ、この作品を書くことによって、『四畳半神話大系』の世界にふたたび触れることができたのは登美彦氏としても嬉しいことであった。『四畳半タイムマシンブルース』を書くという行為は、まさにタイムマシンに乗って十六年前へ出かけることなのであり、そんな時間旅行を実現できたのはヨーロッパ企画の「サマータイムマシン・ブルース」という作品のおかげである。
ところで原案者たる上田誠氏は、タイムマシンというか、タイムパラドックスというか、とにかくそういうたぐいのややこしい現象に対して、あいかわらず興味津々のご様子である。現在公開中の映画「ドロステのはてで僕ら」にそのヘンタイ的情熱が横溢しているのは誰もが認めることであろう。
ちなみに「ドロステ」とは公式サイトの説明によると、
「絵の中の人物が自分の描かれた絵を持ち、その絵の中の人物も自分が描かれた絵を持ち……という、無限に続く入れ子のような構図のこと」
かつて登美彦氏が『四畳半神話大系』を書き、それを上田誠氏が脚本を書いてテレビアニメ化し、さらに登美彦氏が上田誠氏の「サマータイムマシン・ブルース」を『四畳半神話大系』の世界に持ちこんで小説化したわけだが、これを上田誠氏がふたたび脚本化してアニメ化するようなことにでもなったら……この清らかなおっさん二人組によるキャッチボールこそドロステくさい。文学的ドロステくさい。
というのは冗談であるが、『四畳半タイムマシンブルース』というタイムマシン作品が出版される夏、こちらもまたタイムマシンをめぐる映画「ドロステのはてで僕ら」が公開される――これも何かの御縁である。運命の赤黒い糸である。
森見登美彦氏、「京大的文化」について語る。
つねづね森見登美彦氏の考えていることがある。
今の京大生というものは、きっと登美彦氏のことを、
「なんやアイツ」
と思っているにちがいない。
登美彦氏が京大生なら、そう思う。
ひとつだけ言わせてもらうなら、登美彦氏の作品に登場する「大学」と、現実に存在する京都大学はイコールではない。かといって「イコールでない」とも言い切れない。京都大学で過ごした学生時代は登美彦氏に多大な影響を与え、その経験から生まれた妄想が作品に持ちこまれているからである。一体どこまでが「京大的文化」であり、どこまでが「登美彦氏の妄想」なのか?もうグチャグチャである。
だから「京大的文化」について語るのはムツカシイ。
いや、そもそも、そのような「文化」が本当にあるのだろうか?
ご興味のある方は本書、是非よろしくお願いいたします。
森見登美彦氏、ふたたび生配信をする。
先日、森見登美彦氏は小説「四畳半タイムマシンブルース」の連載開始を祝って、劇団ヨーロッパ企画の上田誠氏と生配信をおこなった。
次は万城目学氏もまじえた三人である。
6/30(火)22:00~ 万城目さんと森見さんと上田が近況を報告しあう会
とくにこれといったテーマはないらしいので、毎年開催されている忘年会のごとく、心の清らかなおっさんたちが集い、万城目学氏のおもしろ近況報告を謹んで拝聴する夜になるのであろう。それにしても、同じメンバーでフジテレビ「ボクらの時代」に出演したのはいつであったか。驚くなかれ、まるまる三年前である!という驚きの事実に登美彦氏はあらためて驚きなのである。光陰矢のごとし。
『太陽と乙女』(新潮文庫)
6月24日、森見登美彦氏のエッセイ集『太陽と乙女』文庫版が発売となる。
デビューから十七年、ほぼすべてのエッセイをぎゅうぎゅうに詰めこんであるので、文庫版はじつに561ページという大ボリュームとなった。じつに愛らしいコロコロ感、まえがきにあるような「寝る前に読む本」としても長持ちするにちがいない。文庫化にあたって、(1)マンガ版『太陽の塔』に寄せたあとがき、(2)西東三鬼『神戸・続神戸』に寄せた文庫解説を追加している。
さらに特別付録的な意味で「このエッセイはフィクションです」という長めの文庫あとがきをつけた。「いかに自分はエッセイを書くのが苦手であるか」という嘆きをぷちぷちと書き綴ったもので、どう考えてもエッセイ集の締めくくりにはふさわしくないが、書いてしまったものはしょうがない。
以下、登美彦氏がとくに気に入っている文章のタイトルを挙げる。
・カレーの魔物
・『有頂天家族』第二部刊行遅延に関する弁明
・或る四畳半主義者の思い出
・マンガ版『太陽の塔』あとがき
・長い商店街を抜けるとそこは
・ならのほそ道
第一回 生駒山
第二回 大和西大寺駅
第三回 大和文華館と中野美術館
第四回 志賀直哉旧居
第五回 高山竹林園
・春眠暁日記
・窓の灯が眩しすぎる
・記念館と走馬灯
・「森見登美彦日記」を読む
最近、登美彦氏はいよいよエッセイを書かなくなってきた(その深遠な理由については本書収録の「このエッセイはフィクションです」を参照)。こんなノロノロしたペースでは、次のエッセイ集を出版できるだけの分量が溜まるのは遥か遠い未来、もしかするとエッセイ集なんて二度と出版できないかもしれない。
というわけで、この本がオモシロいかどうかは個人の趣味の問題だが、めずらしい本であることだけはたしかである。買うなら是非ともお早めに、どうぞよろしくお願いいたします。
あと「ならのほそ道」で思いだしたが、登美彦氏の奈良仲間・前野ひろみち氏の『満月と近鉄』も好評発売中なので、あらためて宣伝しておく。登美彦氏と前野氏の対談も巻末に収録されている。登美彦氏による「ならのほそ道」と合わせて読めば、いっそう奈良に心惹かれること間違いなし。
京都もいいが、奈良もいい。
森見登美彦氏、読んではならぬ怪文書を読む。
たしかにこれは「怪文書」である。
賢明なる読者諸氏はこんな胡散臭い文章を読んで時間を空費してはならない。この記事において仄めかされていることが真実か否か、そんなことは前野ひろみち氏の著作を自分で読めば容易に判断できよう。
なお、前野ひろみち氏のinstagramは「さすが畳屋さん」というべし、ストイックで素敵なものである。そこに広がる畳宇宙を眺めていると、奈良の水田に吹きわたる初夏の風さえ感じられる。主題が「畳」であるだけに、元四畳半主義者の登美彦氏としても注目せざるを得ないのである。
https://www.instagram.com/hiromichi_maeno/