「シャーロック・ホームズの凱旋」(小説BOC)


 

小説 - BOC5

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 中央公論新社の小説BOC第五号に、森見登美彦氏の連載「シャーロック・ホームズの凱旋」の第三話「マスグレーヴ家の儀式(前篇)」が掲載されている。あいかわらずシャーロック・ホームズ氏は有益な推理をいっさい披露しない。
 

 「ワトソン君。君はどう思う?」
 ふいにホームズに声をかけられ、私は我に返った。
 いつの間にかホームズはベッドで仰向けになり、下宿の天井を見上げていた。その胸には『イケてる世の捨て方』を抱いている。
 「……なにが?」
 「隠居するのにふさわしい場所を考えていたのさ。たとえば大原はどうだろうか。ヴィクトリア朝京都の忌々しい喧噪もスモッグもあそこなら届かない。心穏やかに生きていける。苔むしたわらべ地蔵たちとぷつぷつ語り合い、そして蜜蜂を飼うんだ」
 「どうして蜜蜂なんだよ」
 「ハチミツは身体にいいんだぜ。ローヤルゼリーも」
 「そりゃそうだが」
 「あるいは吉田兼好みたいに竹林に庵を結ぶ手もある。いかにも世を捨てた感じがするだろう。洛西には立派な竹林がいくらでもあるさ。小さな庵に立て籠もって毎朝タケノコを掘る。そして若竹煮を主食にして生きていく。いや待てよ、若竹煮だけでは栄養が不足するな。やっぱり蜜蜂も飼ったほうがいいかな。若竹煮とローヤルゼリーだけで人間は生きていけると思うかい?僕は栄養学には不案内だからね、医師としての君の意見が聞きたい」
 「栄養はともかくとして、そんな退屈な生活に君が耐えられるとは思わないね。君に隠居は向いてない」
 「失敬だな、ワトソン君。隠居する才能ぐらいあるさ」
 「何を言ってるんだ、ホームズ。まだ君の人生は始まったばかりなんだ。これからバリバリ活躍するんだ」
 「……なるほどね。で、それはいつからなんだ?」
 ホームズは吐き捨てるように言うと、本を放り投げ、布団にもぐりこんで背を向けてしまった。
 「僕の活躍はいつから始まるんだ?教えてくれ!」
 その悲痛な叫びには私も返す言葉がなかった。