登美彦氏、潮が満ちるのを待つ


 森見登美彦氏は小説を書いている。


 昨年の夏。
 プツンと緊張の糸が切れ、
 何もかもが停止した。 
 迷走しているうちに時間が過ぎた。
 沈黙している場合ではなかったが、
 沈黙するほかなかったのである。
 幸いなことに締切次郎は駆逐された。
 今のところ、やつを呼び戻す気持ちは登美彦氏にはない。
 締切次郎をなんとなく恋しく思ったりもするが、
 彼と上手くやっていくことは不可能である。
 どれだけ彼がつぶらな瞳をしていようがダメなのである。


 いま登美彦氏はある連載の書き直しをしている。
 そのタイトルは、なんとなく伏せておこう。
 (急いてはコトをし損じる)
 「すでに連載したものを書き直すだけならば、少しは楽ちんであるはずだ」
 一年半前、登美彦氏はそう思っていた。
 実は楽ちんではなかった。
 (今もまだ楽ちんではない)
 ありとあらゆる姑息な手段を検討し、 
 実際に手をつけて書き進めてみたが、
 いずれを選んでも行き詰まった。 
 けっきょく、連載原稿とサヨナラし、
 まったく新しい冒険を始めざるを得なかったのである。
 不本意ながら。
 怠け者なのに。


 新しい冒険は困難である。
 暗礁だらけの海峡をヒヤヒヤしながら抜けていく。
 ようやく進み始めたかと思えば、
 ごつんごつんと暗礁にぶつかり、
 「もうだめかもしれん」とイヤになる。
 「これならいける」と思っても油断はならない。
 見渡すかぎり暗礁ばかり!


 どうにもこうにも身動きがとれなくなったときは、
 自然にまかすのも一つの手である。 
 熱帯の島に上陸してパンの実を食べ、
 ゴクラクチョウやカンガルーと遊んでいるがいい。
 満月とともに潮が満ちてきて、
 岩礁にひっかかっていたノーチラス号もフワリと浮くだろうという話。


 登美彦氏はまたジュール・ヴェルヌを読んでいる。

 
 海底二万里〈上〉 (新潮文庫)


 海底二万里〈下〉 (新潮文庫)