登美彦氏、手ぬぐいを愛用する


 森見登美彦氏は手ぬぐいを使う。


 手ぬぐいというものはスバラシイものである。
 一時、登美彦氏は「手ぬぐいが好きだ」と不用意に発言したために、やってくる編集者の人たちがことごとく手ぬぐいをもたらし、瞬く間に手ぬぐいコレクションができてしまった。
 しかし手ぬぐいというものはいくらあっても困らないものである。


 登美彦氏はつねに執筆に向かうとき、二枚の手ぬぐいを使う。
 一枚は頭に巻くためである。執筆に行き詰まって髪をむしるのを阻止するためである。
 もう一枚は濡らして首に巻くためである。電力不足の昨今、濡れ手ぬぐい冷房にまさるものはない。
 外へ散歩に行くときも手ぬぐいをひらひらさせていれば、なんとなく地元の人間っぽく(地元の人間ではないくせに)、他の通行人たちに対して心の余裕を示すことができ、不審者と見られるのを避けることができる。金魚やら狸やら竹林やらの手ぬぐいをひらひらさせてノンキに歩いている人間が、危険に見えるはずがない。
 汗をぬぐって汚れたら、適当なところで洗って絞る。ひらひらさせておけばすぐ乾く。こんなにも便利な布きれが存在してよいのだろうか。
 いよいよ本当の手ぬぐいの時代が来た。

 
 昨今、登美彦氏の作品の舞台をめぐるために京都に来る人もいるという。
 ここだけの話であるが、登美彦氏の小説は妄想の産物であるために、そこに描かれる京都もまた妄想である。もし作品の舞台を見たいとすれば、妄想を駆使しなければならない。
 その妄想の土台として、この手ぬぐいを活用することが可能である。


 
http://www.shincho-shop.jp/shincho/goods/index.html;jsessionid=204F4B403561374A0C16AA7D95590255.shincho-c?ggcd=snc00253


 濡れ手ぬぐいとして京都の地獄の暑さをやわらげ、なおかつ無目的にひらひらさせることによってワンランク上の旅行者として心の余裕を見せつけることができ、さらには作品の舞台をめぐる地図として活用できる、一石三鳥の手ぬぐいである。


 くれぐれも真夏の京都では、暑さ対策を怠りなく。