登美彦氏、締切次郎を蹴散らして走る。


 猥褻なまでに潤んだ瞳でおのれを見上げる締切次郎を見つめ、
 森見登美彦氏は負けじと瞳を潤ませた。


 「仕事、始めない!」


 登美彦氏は叫んだ。


 「いやいや、仕事始めなんですよ」
 締切次郎は猫なで声をだす。「そろそろ始めないと、あれもこれも…」
 「黙れ、次郎」
 登美彦氏は精一杯恐ろしい顔をした。「太郎に言いつけるぞ!」
 「あ!」
 締切次郎はぷるぷるの頬をこわばらせた。
 竹の切り株に抱きつくようにして「いやいや」をした。
 潤んだ瞳がますます潤む。
 「それは言わない約束なのに!」
 「そんな約束をいつしたか、何時何分何曜日!?」
 「そんな森見さんってば、しどい。小学生じゃないんだから」
 「うるさい!」


 登美彦氏は薄暗い竹林を走り出す。
 すかさず締切次郎は登美彦氏の右脚に飛びついた。「逃げたってムダ!」「あとで自分が泣く癖に!」と不愉快きわまる正論を叫びながら、締切次郎は全体重をかけて登美彦氏の逃亡を阻止せんとする。
 「この!この!」
 重い脚をぶんぶん振るようにしながら登美彦氏が飛び跳ねるたび、
 「あふん!あふん!」
 締切次郎は不必要に艶めかしいうめき声をあげ、
 登美彦氏のいらだちに拍車をかけた。


 「この!この!」
 「あふん!あふん!」
 「そんな声をどこから出してる!」


 二人はそのままくんずほぐれつ、竹林の奥深くへ迷い込む。
 ついに次郎の重みに耐えかねた登美彦氏はどっかりと座り込んだ。ころころと転がる締切次郎を捕獲して、そのほっぺたを「ぎう!」と渾身の力で押しつぶした。「ふひ!」と締切次郎が泣き声を出す。
 「おまえと馴れ合うつもりはない!」
 「ほんはほほひっへ!(=そんなこと言って!)」
 締切次郎は負けじと叫ぶ。
 「ほんほうはふひはふへひ!(=本当は好きなくせに!)」
 「おまえなんか好きなものか!しかもなぜこんなにほっぺたがぺたぺたするんだ!」


 そのとき、二人のかたわらにある一本の竹が黄金色に光りだした。


 登美彦氏はギョッとした。
 「また締切次郎か!」と思ったのである。
 登美彦氏は光り輝く竹を指さして締切次郎に訊ねた。
 「あれはおまえか?」
 締切次郎はぷるんぷるんと首を振った。「知んない」
 「じゃあ、ひょっとして『太郎』か?」
 二人は顔を見合わせた。
 ドッと強い風が吹き、竹林が不気味にざわざわする。
 締切次郎は唇をすぼめるようにした。「まさか…」


 「やめて!やめて!それだけは堪忍して!」
 締切次郎が叫ぶのを無視し、登美彦氏は竹に歩み寄った。
 ホームセンターで買ったノコギリが、竹の光をうけてキラリと光った。