登美彦氏、招待状を受け取る。


 枯れた創造の泉の岸辺に、森見登美彦氏が三角座りをしていた。
 登美彦氏は二月頃からずいぶん長くそうしている。
 全地球的規模で進む環境破壊は、辺境にある登美彦氏の創造の泉にまで及んだ。
 荒涼たる岸辺に座る登美彦氏は、かつての泉を思い浮かべる―


 小さな泉とはいえ、かつてそこには満々と何かの汁がたまっていた。ややねっとりとした液体で、水面には鼻の頭の脂が浮き、大学生協のみそ汁(二十円)みたいな匂いがしたが、ともかくも液体がたまっていた。頑張って柄杓をつっこめば、底のやわらかい泥の中に転がっている乙女チックな白玉団子を拾い上げることもできたのだ。そして乙女チックな白玉団子は、比較的口当たりがよく、ていねいに洗ってやれば泥の中に転がっていたものとは分からなかった。商売は繁盛した。


 しかし今、泉は干上がり、底の泥がむきだしになっている。かつて登美彦氏に乙女を描かせた妄想の白玉団子たちも泥にまみれてカピカピになっている。
 登美彦氏は立ち上がり、足を泥に踏み入れてみた。
 足跡がくっきりついた。
 登美彦氏はまた定位置に戻って座りこんだ。
 烏がなきながら青い空を渡っていく。
 登美彦氏は枯れた泉の泥に目を凝らし、ときには「お?」と腰を浮かせるが、すぐにぺたんと座りこんでしまう。


 やがて、登美彦氏は枯れた創造の泉の岸辺に小屋を建てた。
 ずっと三角座りをしていると疲れるからである。
 表札には「登美彦庵」と書いてある。
 小屋の窓に望遠鏡をすえつけて、油断なく泉を見張った。疲れると珈琲を淹れ、煙草をぷかりと吸った。大山脈の向こうに日が沈むと、ソファに座って麦酒を飲みながらアニメ『精霊の守人』を観た。
 やがて夜が更けると、ドアをこつこつと叩く音がする。
 「こんばんは。次郎です。こんばんは」
 登美彦氏はテレビの音量を大きくする。
 そして呟く。
 「宇宙船地球号の乗客の中に、お医者様はいらっしゃいませんか?登美彦氏の脳味噌を活性化できる女医さんはいらっしゃいませんか?手術が必要です」


 庵を結んだとはいえ、登美彦氏は抜け目がない。
 登美彦氏は知的で美しい読者からのお便りがきちんと届くように、小屋の前に赤い小さなポストをこしらえた。じつにメルヘンである。しかしポストに届くのは、「まさかお忘れではあるまいと存じますが、ホラごらん、今そこにある締切次郎」というお手紙が大半であった。じつにメルヘンもくそもない。
 一念発起した登美彦氏は、締切を危うくすることも厭わずに三日三晩不休で働き、読者からのお便り以外の書簡はすべて自然発火させる画期的なポストを開発したが、それを小屋の前に据えつけると画期的なポストも一緒に燃えてなくなり、あやうく登美彦氏も燃えてなくなるところであった。
 また登美彦氏は毎晩小屋を訪ねてくる締切次郎を亡き者にすることも企んだ。小屋の扉に、仕事帰りに錦市場で入手してきた火薬をしかけたが、不発であった。よく調べると、それは火薬ではなく、かやくご飯であった。
 哀れむべし、登美彦氏は火薬とかやくご飯を間違えるという、ここに書くのもためらわれるほどベタベタで初歩的な間違いをおかすほどに、追いつめられていたのである。
 登美彦氏は締切次郎とテーブルをかこんで、かやくご飯をもりもり食べた。
 氏の好物の一つがかやくご飯であったのは不幸中の幸いであった。


 泉は乾いたままであり、小屋のまわりには竹ばかりが伸びて生い茂った。
 登美彦氏の髪も伸び、髭が生い茂った。
 「もうこのまま、私はこの泉の岸辺で朽ち果ててゆくのだろうか・・・かやくご飯だけを食べて・・・看取る者は締切次郎・・・」
 そんな根暗なことを考えていたある日、赤いポストに一通の手紙が届いた。
 「森見さんの小説を読んでいる者です。一緒にご飯でも食べて、お喋りしませんか」
 差出人は神山健治氏という男性であった。



 数日後、登美彦氏は泉の岸を後にした。
 遠い「凍狂」という街で暮らす神山健治氏なる人物を訪ねるため、旅に出た。