登美彦氏、高貴な玉子を追い回す。


 森見登美彦氏も、たまには自炊をするのである。


 登美彦氏が好きな食べ物として広く知られているものに、ベーコンエッグがある。朝食にベーコンエッグがあれば、たいてい登美彦氏は満足する。登美彦氏の未来のお嫁さんは、この事実を手の甲にマジックペンで書き込み、毎日暗唱して覚えるべきである。

 
 登美彦氏は玉子ごはんも好きである。
 玉子ごはんとは何か。
 ごはんに玉子をかけたものである。
 夕食に玉子ごはんがあれば、たいてい登美彦氏は満足する。登美彦氏の未来のお嫁さんは、この事実をわら半紙に書いて壁に貼り、毎日暗唱して覚えるべきである。


 玉子ごはんに対する欲求が高まったため、「今宵の晩餐は玉子ごはんだ」と登美彦氏は決めた。
 むろん、登美彦氏も立派な大人であるから、玉子ごはんだけでは栄養的にダメだということは百も承知している。登美彦氏は母親が差し入れてくれたインスタントのみそ汁、買ってきた牛肉のコロッケ、野菜ジュースを添えることにした。
 しかし、主役はあくまで玉子ごはんである。
 玉子ごはんとは何か、と改めて問おう。
 それはごはんに玉子をかけたものである。
 ごはん。
 そして玉子。
 ちょっぴりの醤油。
 シンプルであるがゆえに、その味は素材の質によって決まる。
 メインディッシュと言うべき「玉子ごはん」の玉子を、コンビニで買ってきたへなへなの玉子でごまかすというのは、人生をごまかすということである。「そんな玉子ごはんばかり喰っていると、立派な大人にはなれない」と登美彦氏は主張する。
 したがって登美彦氏はわざわざ大丸百貨店で上等の玉子を買ってきた。


 いよいよ玉子ごはんを食べるということになり、登美彦氏は玉子を一つ取り出した。
 取り出すなり、落下させた。
 もちろん不慮の事故である。
 「アアッ」と悲痛なうめき声を上げた登美彦氏も哀れだが、玉子も哀れであった。
 しかし玉子を落とした哀しみに耐えかねてうなだれる登美彦氏に対して、玉子は雄々しく立派であった。
 高いところから落ちた玉子は割れて白身がべったりと広がったものの、黄身は形をもとのままに保ち、ぷるんと床に座っていた。まったく動じていない。ぷるぷるしているのに、動じていない。
 登美彦氏はしゃがみ込み、玉子の黄身の美しい姿を眺めた。
 さすが大丸百貨店の上等な玉子だけあって、その姿には気品があった。
 「たとえ地べたに這いつくばっても、育ちの良さは現れるものだな!」


 その後、登美彦氏は黄身を始末するのにたいへん苦労した。
 頑丈な黄身は登美彦氏が拾おうとしてもツルツル滑って、どこまでも逃げていったからである。あやうく冷蔵庫の下にまで入り込んで、戻って来なくなるところであった。
 台所の床をつるつる滑っていく黄色い丸いものを追い回して、登美彦氏は良い運動をした。


 そして良い運動をしているうちに腹はほどよく減り、美味しい玉子ごはんを食べる支度はととのった。
 「玉子よ、ありがとう」


 登美彦氏は上等の玉子に対して、感謝の念を捧げるものである。



 (補足)
 いくら登美彦氏でも、朝晩毎日ベーコンエッグと玉子ごはんでは病気になってしまう。いくら好きなものでも、毎日食べ続ければいやになる。どんなに書くのが好きであっても、毎日書いていればいやになるように。登美彦氏の未来のお嫁さんは、このことをやわらかいハートに刻むべきである。そして登美彦氏に野菜を食わせるべきである。ただし「肉じゃが」と「焼きトウモロコシ」は認められない。これらを食卓にならべると、登美彦氏はひどく哀しむ。肉じゃがの味で騙されるほど、登美彦氏は素直な男ではない。焼きトウモロコシのつぶつぶを囓るほど、登美彦氏は根気のある男ではない。