登美彦氏、人気者となる


 森見登美彦氏はまた日帰りで東京へ出かけた。
 登美彦氏は決して東京に宿泊しないことで有名である。なぜならばホームシックにかかるからであり、ホームシックがひどくなると身体が灰になるからである。それに加えて、滞っている仕事もあるからである。


 登美彦氏はふたたび飯田橋へ降り立ち、お堀を渡った。
 飯田橋の細長い駅舎も趣きがあるが、そのまわりの景色もまた面白いので、登美彦氏はたいへん好きである。
 登美彦氏は、待ち伏せしていた女性編集者二人に確保され、一緒に鰻を喰う羽目となった。何かお話をしたようだったが、登美彦氏は鰻に夢中であったので記憶にないという。
 鰻を喰っているところへ、喜多尾氏(「四畳半神話大系」を登美彦氏の手からもぎとっていったヒゲの人)から電話が来た。東京へ潜入したことがなぜバレたのか分からないので、登美彦氏はたいへん怯えた。
 登美彦氏は「見張られている!くわばら!」と叫び、女性編集者を置きざりにして逃げ出した。


 登美彦氏が角川書店に身を隠していると、心優しい女性が珈琲を入れてくれたので、登美彦氏は飲んだ。そして『夜は短し歩けよ乙女』のカバー見本を見せられて、「なんとまあ美しい!私らしくもなくオシャレ!」と叫んだ。『きつねのはなし』とならべると、作者がどういう方針で生きていくつもりなのかサッパリ分からなくなるという点で周囲の人々の意見は一致した。
 登美彦氏が煙草を吸って心を落ち着けていると、「ダ・ヴィンチ」の人たちが出現した。眼鏡をかけた人がしきりにオソロシゲな怪談の雑誌を登美彦氏の胸元へねじこもうとするので、氏は恐怖を味わった。
 登美彦氏にインタビューする人が、劇団ひとり氏との対談の原稿を書いてくれた人であったことは登美彦氏を安心させた。そのY氏はなんとなく登美彦氏の高校時代の知人に似ているので、氏は安心するという。だが実際よく考えてみると、その安心感にはまったく根拠がない。しかし安心するからまあいい、と登美彦氏は言う。
 安心したわりには、喋ったことは支離滅裂であった。


 ちなみにインタビューの前に写真を撮られたので、写真嫌いの登美彦氏はたいへん困った。登美彦氏は良識ある社会人たらんとしているので逃げ出したりはしないけれども、こんな鑑賞しがいのない顔面を映像に残すことが許されるのであろうか!と考えてムッとした顔になるのである。そして「もっと力抜いてください」と恰好良いカメラマンに苦笑されるのである。


 取材が終わると、登美彦氏は別室に案内されたが、そこには登美彦氏を一目見てやろうと集まった書店員の方々が手ぐすねひいて待っていた。
 そして「登美彦氏を囲む会」が始まったので、登美彦氏はかなりびっくりした(知っていたけれども)。「俺を囲む会」・・・なんと魅惑的な響きであろう!と登美彦氏は思った。
 登美彦氏は常日頃、自分の書いたものを読んでくれる読者の人たち、わけても登美彦氏ファンと呼ばれる人たちと接触を持たない。氏はあまりにも接触を持たないでいるので、だんだん「ファンがいる」という事実に対して懐疑的になる。懐疑的になる、というよりも、忘却する。登美彦氏は基本的に、一人孤独に顎を上げて、己が信じる道(多少編集者による軌道修正が入る)を歩いているのみである。
 そういうわけで、読者の五人の方々に囲まれて讃えられるというのは、登美彦氏にとっては、かなり困惑する事態であった。登美彦氏は基本的に誉められると伸びる子だが、誉められると逃げたくなるという厄介な性癖を持っているので、いささか苦しんだ。しかし嬉しかったのである。でも何を喋っていいのか分からなかったのである。


 登美彦氏は書店員の方々と喋り、お菓子を食い散らし、色紙にサインをして失敗して崩れ落ち、慰められて立ち直り、また色紙にサインをし、自著にサインをし、ファンレターを受け取った。
 登美彦氏は数えるほどしかファンレターを受け取ったことがなく、受け取ったファンレターはすべてファンレター用のオレンジ色の箱に保存するほどの「ファンレターコレクター」なので、たいへん嬉しかったという(ただし罵詈雑言が書いてあるものは大文字山で焼き捨てる)。女性から受け取った場合、登美彦氏はなんだか恋文をもらったような気持ちになるという。ただし登美彦氏は「もう大人なので、勘違いはしない」と言い張る。


 そしてお茶会が終わると、登美彦氏は古囃子氏とゲラを眺めてうんうん言い、手書きポップを作り、それから晩ご飯を食べ、また「書けない思いつかない」と古囃子氏を困らせ、そしてせわしなく新幹線に乗った。
 登美彦氏は新幹線の中でファンレターを読み、「うむ!」と言った。
 やや疲れたので登美彦氏はぐんにゃりした。


 本日の登美彦氏はアイドルばりに人気者であった。
 そして古囃子氏は登美彦氏をもっと人気者にしようと画策し、登美彦氏もそれは感謝するのだが、「しかしながら今日ぐらいがちょうどよいのではないかなあ」と登美彦氏はワガママなことを考えた。「もっと人気者になるのか否か、誰にもイマイチ分からんこの薄明の地点で、もっと遊んでおりたいのう」


 登美彦氏は以下の方々に感謝の意を表する。
 ときわ書房のU川氏、A木さん、お手紙で参加されたT橋さん。
 オリオン書房のS川氏。
 スケキヨ君ストラップをくれた角川書店H見氏。


 「本を買ってくれる人がいるということは読者がいるということで、それは分かっているつもりだが、それでもやはり、忙しい中わざわざ会いに来て下さる方がおられるのが妙である。へたくそなサインを喜んだりして下さるのも不思議である。失敗した色紙も持って帰られるのが奇怪である。なかなかこれは腑に落ちにくいことである」