「きつねのはなし」(新潮社)(10月31日発売)


きつねのはなし


第三話 「魔」

 
 板塀に挟まれた路地を抜けていくとき、奥に何かが私を待ち受けている気配をまざまざと感じた。私がその荒れ果てた庭へ足を踏み込んでみると、やはりその気配だけが残っていた。虫以外に動くものは何もないはずなのに、風景の奥にひそんだ何かがおもむろにこちらへ向かって動きだしそうな気配がある。
  

 背の低い木が生えていて、幹に止まった蝉がうるさく鳴いている。空き家の縁側が見えたが、汚い雨戸は閉め切ってある。草に埋もれるようにして、小さな社らしきものと、井戸があった。井戸は、ただ草の生い茂る中に四角く石を組んだ囲いがあるばかりで、上に波形の板が置かれていた。
 日射しが強いのに、かえってあたりが暗くなってゆくように思われる。木々の落とす影がいやに濃かった。何かが腐敗したような甘い匂いがして、夕立の直前に漂う匂いにも似ている。じいじいとしつこく鳴いていた蝉がふいに泣きやんで、あたりがしんとした。
 私は息を飲んだ。
 いつの間に姿を現したのか、あるいは先ほどからそこに待ち受けていたのか、古井戸のわきに狐に似たケモノがいることに気づいた。しかし胴がいやに長い。顔は丸く、狐のように尖っていない。じっとこちらを睨む眼はケモノというよりも人間めいている。
 こいつか、と私は思った。
 眼をそらすのがなぜか恐ろしい気がして、私は魅入られたように身動きがとれなかった。かといってその眼をじっと見つめているのも恐ろしい。時間が油のようにゆっくりと流れた。汗がこめかみから頬へと伝うのを感じた。
 ふいにそのケモノは人間のような白い歯を剥きだし、こちらへ飛びかかるような仕草をした。