登美彦氏、肉を喰う


 編集者の古囃子氏が入洛したので、森見登美彦氏は会いにいった。そうして古囃子氏に連れられて先斗町の由緒正しいことこの上なさそうなすきやき屋へ行った。
 かつて夜の街を乙女が歩くような作品を書いたこともある登美彦氏だが、じつのところ氏は酒もあまり嗜まないし喧噪が苦手な書斎派なので、夜の街のことなぞぜんぜん知らねえ。
 その薄暗い古風なスキヤキ屋は登美彦氏の心を鷲づかみにした。窓から下を見ると、先斗町をそぞろ歩く人々の脳天が見える。登美彦氏はわくわくと落ち着かずに硝子窓の内側を歩き廻った。
 古囃子氏は奥方からの贈り物の菓子をさしだした。
 登美彦氏は古囃子氏の奥方から、なんだかいつも菓子をもらっている。このままでは前々から気になっている虫歯がますます悪化するであろう、と登美彦氏は遺憾に思った。そのくせ氏は歯医者に行かないのである。
 肉はたいそう旨かったということだ。
 そうして古囃子氏は、来年から始まるらしい何かのために「たくさん書きだめしてください」と無茶なことを言った。
 登美彦氏は「肉があまりにも美味しかったので、何も聞こえなかった」と言っている。


 その後、登美彦氏と古囃子氏は地下のバーに移動し、いろいろとたくらみをめぐらせた。
 「サイン会とかインタビューとか対談とか、そういうものはした方がいいですよ。営業活動は大事ですよ」
 古囃子氏は登美彦氏を説得したが、登美彦氏はうぬうぬと唸った。
 「対談も宜しいではないですか。仲の良い作家の方とか、いないんですか?」
 「いない」
 登美彦氏はふてくされた。


 「営業活動が大事なのは分かっているけれども。でもだがしかし。サイン会もインタビューも対談も、小生には不向きだ。サイン会やインタビューや対談が軽やかにこなせるぐらい円熟しておれば、ちまちま何か書いたりしやしない」
 登美彦氏はわがままなことを言っている。