登美彦氏、二種類の死の瀬戸際に立つ


 森見登美彦氏は先日来、不運の神につけねらわれていた。
 「幸運の女神」というぐらいだから幸運を司るのは美しい女性に決まっているが、不運の神は小太りの三十男で、肌がつやつやしている。そしてつぶらな瞳である。なぜだか登美彦氏はそう思いこんでいる。いまいましいこと、この上ない。登美彦氏はその不運の神に「ふわふわ太郎」と名をつけた。そういう暢気な名で呼べば苛立ちがおさまるかと考えたからだが、逆効果であった。
 登美彦氏はますます腹を立てた。
 ふわふわ太郎はさまざまな災厄を登美彦氏へもたらした。
 執筆は行き詰まり、雑務は増え、睡眠は減り、新作を書くため一人で嵐山見物へ出かけたらカップルと女性ばかりで身の置き所がなく、さらに編集者との約束を忘れて遅刻し、寝そびれて夜中にウイスキーを飲んでみたら一人で飲んだのに二日酔いになり、バスに向かって走ったが追いつけなかったので別路線のバスに乗ろうとして走ったらそちらにも追いつけなかった。
 生涯で初めて二台のバスを一度に逃した登美彦氏は、目前で走り去るバスを見送っていた。
 「うぐー!」
 登美彦氏はあやうく憤死しかけた。


 本日。
 ふわふわ太郎にとりつかれた上に、電車の中でチェーホフの救いなき短編小説「六号病室」を読んだために意気消沈していた登美彦氏の元へ、ふいに新潮社から色々なものが届いた。
 まずたくさんの「太陽の塔」(文庫)が出てきた。登美彦氏は一人でにこにこと笑いだし、嬉しくなった。単行本と文庫本をならべて、紳士を気取ってみた。氏によると、大きいものと小さいものを二つとも揃えるのは紳士淑女のたしなみなのだ。
 次にブログを読んだ女性編集者が送ってくれた山崎ハコのベストアルバムが出てきた。あの怖い歌「呪い」が入っている。登美彦氏は「うひゃ!」と言ったが、嬉しいような怖いような、いわく言い難い、味のある顔をした。
 最後に本上まなみさんの「ほんじょの虫干。」(文庫)が出てきた。登美彦氏はすでに持っていたので、「おやおや」と思ったのであったが、ぱらりと開いてみると、標題紙には「森見さんへ」とサインがあった。
 「うぎゃー!」
 登美彦氏はあやうく嬉死しかけた。


 「じゃあ、僕はそろそろ行くよ」
 ふわふわ太郎はおずおずと言った。あんまり登美彦氏が晴れ晴れしていて、不運の神としては居づらくなったのであろう。
 登美彦氏はその小太りの気弱な神の肩を抱いてやった。登美彦氏はそれほど上機嫌であったのである。
 「まあ、そう慌てるなよ。乾杯しようゼ」
 登美彦氏は言った。
 「君の瞳に乾杯だ」