登美彦氏、かぐや姫を迎える。


 竹林はざわざわと揺れ続けている。


 締切次郎は、登美彦氏のズボンの裾を引っ張っている。
 「お願いします!『太郎』は、マジでやばい」
 「ええい、かまわぬ。知ったことか!」
 「太郎が来たら、それこそ何もかも、容赦なく締め切られてしまうのですよ。僕なんざあ、かなわねえ」
 「じょうとうだ。太郎を呼び出して、おまえを蹴散らしてやる」
 「分かんない人ですね!」
 竹を切る腕におぼえあり。
 登美彦氏はギコギコやりだした。
 竹から発する橙色の光の中で、細かい切り屑がふわふわと舞った。

 
 半ばまで切ったところで、どこからか「人生の柱時計」が時を告げる音が聞こえた。
 ぼーんぼーんぼーんぼーん…
 えんえんと響いて鳴りやまず、ついに三十回を数えた。
 「おや!」
 登美彦氏は手を止めた。
 「どうやら俺は三十路に入ったらしいぞ」
 「これであなたも青春を失った」
 「なんのこれしき、まだまだ!」
 登美彦氏はさらにノコギリを動かす。


 光り輝く竹から現れたのは、一人の女人であった。
 たいへん小さい。
 招き猫ぐらいである。
 猫に似ている。
 しかし招き猫よりは、奥ゆかしい感じである。
 彼女はぺこりと頭を下げた。「こんにちは」
 「これはどうも、こんにちは。あなたはずいぶん小さいですね!」
 登美彦氏は言った。「奇遇です。つい最近、娘が小型化したばかり」
 「あら、もうお子さんが?」
 「いや。独身です。独身貴族です」
 「では娘さんというのは?」
 「それは本です。私の書いた本です」
 「ではあなたは、いわゆる『小説家』という種族?」
 「小説家モドキかもしれませんが。それで、あなたはだれ?」
 「かぐや姫モドキです」
 「かぐや姫ではないわけですか」
 「残念ですけど、そうなのです。でも月から来ました。これはほんとう」
 「じゃあ、月に帰らんといかんわけだ」
 「べつに」
 「そうなんですか?」
 「ええ、帰っても帰らなくっても」
 「ではいかがです、お嬢さん、ワタクシめと散歩などは?地球の都を案内して進ぜましょう」
 「宜しくお願い致します」


 というわけで。
 登美彦氏はかぐや姫モドキを連れて、京都の町をくるくる歩いた。
 かぐや姫モドキは地球の景色にまだ慣れないのか、街角の喫茶店をじいっと覗き込んで通行人に怪しまれたり、猫の子を追いかけて車に轢かれそうになったりして目が離せないものの、おおむね上機嫌でふわふわしていた。
 「なるほど、これがこの星の都ですか!」
 「そうです。スバらしいでしょう」
 「五条通というものはとても広いものですね」
 登美彦氏は上機嫌である。


 街角のポストや電柱に隠れながら、締切次郎がついてきた。
 「おい、こら!」
 登美彦氏は振り向いて締切次郎を叱った。「いつまでついてくる?」
 「そんな意地悪を言うものではありません」
 かぐや姫モドキは言った。「ほら、あんなにつぶらな瞳をして。よっぽどあなたのことが好きなんだわ」
 「そんなわけがあるものですか。あなたはまだ地球のことをご存じないからな…」
 「おいで、おいで」
 締切次郎はぽてぽてと走ってきて、かぐや姫モドキに抱き上げられた。
 そして忌々しい頬をふくらませた。
 「そいつを甘やかしても、ろくなことはないですよ」
 登美彦氏は先に立ってずんずん歩いた。
 「あんなこと言ってる」
 かぐや姫モドキは抱いた締切次郎にぷつぷつ言った。「本当は好きなくせに」
 登美彦氏はムッとして振り向いた。
 「なんでそんなことが分かるんです」
 「だって分かるんですもん」
 「ふん。ちがうというのに」
 「うふふ」
 登美彦氏がふたたび歩きだすと、かぐや姫モドキはとことこと追いかけてきた。


 二人はぷらぷらと西洞院通を歩いていく。
 すると、京都市下京区役所が見えてきた。


 登美彦氏はそこで「独身貴族を辞任しよう!」と思い立った。
 「なにしろ俺の人生の古時計は三十年を刻んだのだし、しかも竹林でかぐや姫モドキを見つけてしまった。彼女を地球に迎え入れた責任というものがある。ここはひとつ、思い切ってやってみるべきではなかろうか」
 そこで登美彦氏は「しかし」と迷う。
 「相手は了解してくれるだろうか?」


 「結婚しますか?」
 「結婚って何です」
 「あれです。夫婦ということになって、一緒に暮らすというやつ」
 「ううん、どうかしらん?」
 「ときどき、ベーコンエッグを作ってあげます。玉子ごはんも」
 「うーん」
 「酒も飲ませる」
 「それはたいへんいい感じ。月には帰らなくたってよいのだし、月にはお酒がない」
 「それなら結婚しますか?」
 「あい」
 「どうします?僕は『こんな飯が喰えるか!』とちゃぶ台をひっくり返すかもしれない」
 「ドメスティック・バイオレンス!それなら、ちゃぶ台は接着剤で床にくっつけておきます」
 「なるほど。それなら安心だ」


 というわけで読者諸賢に御報告である。


 森見登美彦氏は、二○○九年一月六日(生誕三十周年記念祭日)をもって独身貴族の地位を引責辞任し、ひよこ豆のように小さな嫁を迎え、ひよこ豆のように小さな家庭を作ることになった。
 『太陽の塔』で登美彦氏を発見した古株の読者は登美彦氏を「裏切り者」と呼び、『夜は短し歩けよ乙女』によってたぶらかした麗しき乙女たちもそっぽを向くかもしれない。「登美彦氏の嫁になり隊」の人たちもサヨウナラ。そうなると、誰よりも哀しむのは出版社である。出版社の涙に濡れた道を、登美彦氏はてくてく歩いていく。そのかわり、もはや一人ではない。
 最後に登美彦氏の言葉を伝えて、この報告を終わる。
 

 「抜け駆け御免。ご意見無用」